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誤射かもしれない
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「立てられた爪さえいとしい」


...種運命/レイシン。




 うそつき。
 夜の、宇宙の闇にほのかに灯って消える声。
 レイは光を見上げる。声の主を彼自身たらしめる怒りも苛烈もない、遠い遠い星の瞬きほどに微かな色だけを宿した瞳があった。ベッドヘッドの薄い明かりに透かし見れば、そこには溶けて滲むようにレイ自身が映っている。認めると同時にレイの視界は閉ざされた。
 同時に、唇によわい熱が。消えてしまった声を押し込むように舌が。
「ん」
 受け止める。うそつき。その通りだ、俺はうそつきだ。本当は黙っていただけなのだけれど、きっとうそよりたちが悪い。俺の存在はもっとずっと酷いもの。悪夢そのものだ。
 口移しされた、うそつき、を飲み下す。舌先はあまりの甘美に痺れすら覚えていた。初めてのときのようにぎこちなく動かして寄越されたうそつきの代わりを返す。ぬろりと絡め取った舌はやはりよわく熱を孕んでいて、そしてレイの舌先に残るよりもずっとずっと、むせるように甘い。
 この甘美に溶けてしまえたら。ふ、という鼻を抜ける吐息に、膝の上で細やかに跳ねる肢体に思う。うそも、思考も、未来も、二人が二人である輪郭も全て溶かしてしまえたなら。……幻想でしかないのだけれど。自嘲の笑みすら触れ合う唇に摩耗して消えてゆく。
 はあ、と息をこぼしたのはどちらだったか。唾液が銀の糸を繋いでぷつりと切れる、瞬く。そうやって絶対に埋まらない距離が開く。膝に乗り上げる体は、重なる箇所は確かに熱を持っているのに。
 俺がうそつきだから。
 俺が俺であって、俺じゃないから。
 うそつき、なんて言葉じゃ足りない。裏切りだろう。
 彼を彼たらしめる怒りは。判決を待つ罪人のように見上げる。赤い光はほのかに瞬いて、二人の部屋というちいさな宇宙に消えていく。この宇宙に俺が存在していられる時間はあとどれほどだろうか、怒りが死を断じて下されるとしても、きっと意味がない。それほどの時間しか残っていない。
 果たして審判者は、あるいは共犯者だったはずのシン・アスカは何も言わない。手酷い裏切りへの責めが、消え入るようなうそつき、だけなんてことはないだろう。なのに――なのに彼を彼たらしめる怒りは見えないほどの水底に沈んでいるようだった。辛いことや悲しいことしかない戦いの最中、すっかり削られて丸くなって、今はただ波に転がされている。
 俺にだけは、憤っていいのに。レイはそう思う。そうして欲しい、とも思う。でなければ自分には、シンに思われるだけの価値もないのだと思ってしまう。例え事実であったとしても、きっとそれは悲しいし寂しい。
 シンの指がつっと持ち上がる。己の首に巻きつく幻想にレイは目を眇める。しかしトリガーを引き続けるだけの指は首ではなくレイの肩へと伸びた。躊躇いに揺れてとどまる。触れる寸前の距離が寒々しい。
「お前の発作」
 ふと、ここに来てやっと、シンが言葉らしい言葉を発した。相変わらず見上げる赤にはほのかな明かりが揺れている。
「大丈夫なんだよな、しても」
 しても、が指している行為は明白だった。照明の落ちたふたりだけのちいさな宇宙だ。レイはベッドの上で足を伸ばしていて、シンはレイの膝の上に乗っている。今まで幾度も繰り返されたお互いの小さな死、あえかな絶頂をシンは案じている。
「すぐにどうこうなるようなら、レジェンドには乗っていない」
「そっか。……そうだな」
 また、うそつき。
 すぐに、ではない。発作に予兆はなくいつ起きるかわからない、少なくとも身体運動に誘引されて起こるものではない。レイの命が尽きるまでにもまだ少し時間はある。ただそれだけ。ずっとレイがシンを欺いてきた、全ては語らないといううそ偽り。
 それでもシンはわずかばかり安堵した様子でレイの肩に触れた。手のひらがそのままするりと滑り、肩から背中に腕が回る。頬にシンの柔らかい髪が触れ、肩に顔を埋められているのだと触れた温度から気づく。隙間がないぐらいぎゅうぎゅうにくっついて、揺れていた指先はしっかりとレイの肩甲骨あたりに縋りついていた。まるで存在を、生きていることを確かめるように。
「うそつき」
 今度ははっきりとした声だった。同時にぎゅっと背中に回る指先に力が込められた。既に互いの肌を晒し合っていたのであれば、きっと血が出るぐらいの痕がついていただろう力で。
 レイは眉をひそめることすらしない。代わりに、ああと。初めて己の生を嘆いたような、そんな気分になった。
 うそつきに、憤って欲しいなどと。でなければ価値がないようで悲しい、寂しいなどと。
 傲慢だ。人は。俺は。養い親やもう一人の自分の顔が脳裏で瞬いて消える。代わりにまっくらな心を埋めるのは、シンのかすかな嗚咽だった。この艦で、このふたりきりの宇宙を共有してから今まで、何度も何度も聞いた慟哭の声。家族を亡くし、慈しんだ少女を亡くし、悪夢に引きずり込まれて叫ぶ声。
 レイはそっとシンの背に触れる。毀れものを扱うように、いつか失われる姿を尊んで。震える体を抱きしめる。甘やかな死のような、ぬばたまの髪に鼻先を埋める。
 傲慢だ。俺という死にゆく者の。なぜならばうそつきに手を引かれて、誘われて、愛されてしまって愛を返して、そうしてさいごにはひとり残されてしまうシンの方がずっと寂しくて、悲しい。そう信じることが今のレイにはできる。
 できるのに、失われる自分の命を惜しいと。少しだけ思ってしまう。
 シンの背を、髪を撫でる。更に強く、強く、背に爪を立てられる。いっそ肉のずっとうちがわ、心に、魂に、傷跡が残ってしまえばいい。誰かではない俺である、レイ・ザ・バレルの生きた証になる。傲慢にも願いながら、レイはシンとともに刹那の宇宙に沈む。



(沁々三十題/群青三メートル手前)
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