誤射かもしれない
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「ひとりで目を瞑らないで」
...あんスタ/翠千。
...あんスタ/翠千。
初めて見たあの瞳を、今もまだ知らないでいる。
高峯がそれを見たのは、薄ぼんやりとした陽光の広がる青空の下だった。
冗談みたいな話だが、高峯は受験する科を間違えたことに入学式当日になって気がついたのである。どおりで受験科目に歌唱があったり背筋を伸ばして数メートルを歩かされたり、面接で好きなアーティストや好きな音楽のジャンルを訊かれたわけだ。
――なんて、アイドルというキラキラした未来を信じる新しいクラスメイトたちを横目に思い知ったところで後の祭りだ、本当に。鬱だ死にたい。
世の中が新たな出会いと希望に満ちた春は高峯にとって陰鬱な気分が深まる季節だが、今年は例年の比ではない。
しかもアイドル科。アイドル科ときた。夢ノ咲学院にそういう特殊で、きらびやかで、おそらく一生自分に縁のない科が存在することは知っていた。だがまさか、自分がそこに属することになるなんて。鬱だ。これから卒業までの三年間、どう過ごせと?
学院の名前どおり、えらい人達の夢溢れるありがたい話を聞き流してつつがなく入学式を終え、活気づくクラスメイトたちとともに講堂から教室へ移動しオリエンテーションを終えれば昼過ぎにはもう放課後だ。クラスメイトたちが三々五々と明るい顔で散っていく中、高峯ものろのろと重い腰を上げた。担いだ鞄は配布された諸々のプリントやテキストでずっしりと重たく、また陰鬱な気持ちになった。
廊下をゆく生徒たちの中に、高峯のような暗い面持ちはひとつも見当たらない。みんな弾むような足取りで、帰ろう、とか、ちょっと校内回ってみようぜ、とか、あるいは部活動覗いてみよう、とか、そんな話をしている。
浮足立った、きらきらした世界からひとり取り残された高峯はそこに混ざる気などもちろん起きず、さりとて早々に帰宅して間違った科に入学してしまったことを家族に伝える気も起きず、結局人のいない方へ、いない方へと、ふらふらと歩き出した。
入学式当日の今日は、新入生のみならず全学年で半日授業らしい。一年生を示す赤色のネクタイだけでなく、青いネクタイも緑のネクタイも多く見かけた。昼食時ためかガーデンテラスへの人波が多く、次いで部活動やユニット練習とやらが始まるのか各活動場所へ流れる人も多いようだった。物珍しさからか、講堂やガーデンスペースへ向かういかにも新入生らしい背中もいくつか見える。
それらの背に続くという選択肢はまずない。ユニットが練習に使うらしい、ダンスルームやレッスン室なんて論外だ。
結局、人を避けて歩く高峯は押し出されるようにして屋上へと辿り着いた。
夢ノ咲学院の屋上は高峯が先月卒業した中学校とも、世間一般の屋上のイメージともずいぶん違った。
校舎そのものが桁外れの大きさなのだから当然だが、まず広い。ばかみたいに広い。植え込みや備え付けられたベンチぐらいまでならまだしも、市松模様に敷かれたタイルの向こうには芝生が広がっているし、校庭にでも植えていそうな立派な樹木まで植わっている。
こういうのは何というんだったか、空中庭園? 屋上庭園? 街灯まで要所要所に設置されているが、夜間にも利用されているのだろうか。
いずれにせよ、一介の高校のものとは思えない広い屋上にのどこにも人影はない。高峯はほっと息をついた。吐いた分深く息を吸って、自然と丸まっていた背筋を伸ばし、顔を上げる。猫背も俯きがちな癖もよくないとは思うのだが、どうしたって直せそうにない。
視線の先では雲ひとつない薄い水色の空がどこまでも広がっていて、朝からどんよりと陰鬱だった気持ちが少しずつ晴れていくのを感じた。こうしていると自分はちっぽけな人間だと思えるようで落ち着く。
ざあっと木々を揺らして吹き抜ける風に目を細める。視界を淡いピンクの花弁がいくつも通りすぎて、高峯は何気なくそちらへと顔を向けた。植え込みの向こう側、そう高くない柵の向こうにこれまたばかみたいに広いグラウンドが見える。その向こうも向こう、端の方に、桜の並木が見えた。
誘われるようにふらふらと、高峯はフェンスへと足を向ける。目の前まで辿り着いてもやはり屋上を囲うには低すぎるフェンスだった。簡単に乗り越えられそうだ。
軽く手をかけて、試しに下を覗き込んでみる。ちょうどガーデンスペースになっているらしく、生い茂る木々やその隙間に芝生が見えた。高さは……それなりにある。
広い広い空の下、舞い散る花弁と吹き抜ける春風の中で、高峯は地上を見下ろす格好のまま、ごくりと唾を飲み込んだ。
(……ここなら、)
簡単に飛べる。
中学校や小学校の屋上は、まず立ち入りが禁止されていた。仮に授業なんかで踏み込むことがあったって、今の高峯の身長でも見上げなければいけないほど高いフェンスが張り巡らされていて、いかにも飛び下り防止です、といわんばかりだった。
なのにこの学校の、この屋上の長閑さときたら。文字通り夢溢れる生徒の集う、夢ノ咲学院アイドル科には、屋上から身を投げようとする後ろ向きな人間はいないのだろうか。
ここなら、簡単に飛べる。簡単に、死ねる。
もし自分がこの柵を乗り越えれば、高峯が初めてこの学院の屋上から飛んだ人間になるのだろうか。
そこまで考えて、高峯は自嘲した。
鬱だ、死にたい、心の風邪だ、が口癖の高峯だが、本当に死ぬ気があるのかと問われれば、ない。痛いのは嫌だ。現状から安易に逃避したい願望を、死にたい、ということばで表しているだけなのだ。その程度の自覚は高峯にもあった。
曖昧に口元を歪めたまま体を起こし――次の瞬間、背後から響くばぁんという音に跳ね上がった。
振り向けば、先ほど高峯がくぐったドアが開け放たれている。その前にすっくと立つ影があった。ネクタイの色は、緑。緑って何年生だっけ。きりりとした表情で、遠目にも嫌になるほど整った顔立ちの男が仁王立ちしている。
あれは、絶対に近づきたくないタイプの人間だ。
高峯は直感的に悟った。近寄らなくてもあの立ち姿だけでわかる。
できれば見つけてくれるな、その一心で高峯はまた背を丸めた。ぎゅっと柵を掴んで、さり気なく、そろそろと植え込みの影へと回り込む。このへんからなら見えないだろう、早くどこかに行ってくれ――しかしそう願った瞬間に、どうやら希望は打ち砕かれたらしい。
「見つけたぞ、守沢!」
鋭い声にバタバタと複数の足音が重なる。仁王立ちになった男の向こう、開け放たれたままのドアから何人かの生徒が屋上へ流れ出していた。どうにも穏やかでない様子に高峯は思わず硬直する。
とはいえもちろん、彼らの目的は高峯ではないらしい。殺気立った集団の先頭、眼鏡をかけたいかにも几帳面そうな生徒が相変わらず仁王立ちを続ける生徒を指差した。
「今日という今日はおとなしく取り押さえられてもらうぞ守沢! でなければ新入生に示しがつかん!」
明らかな怒声に無関係の高峯が体を縮こまらせた。大きい声は苦手だ。ここならば人もいないし静かだと思ったのに、どうしてこんなことに。
内心で嘆いたとて、誰も高峯には気づかない。気づかれたって困る。どうでもいいから早くどこかへ行ってくれと願う間にも、怒りを向けられた張本人、守沢、というらしい男は、なぜだかますます胸を反らせ、ふんぞり返って答える。
「はっはっは! すまんな蓮巳、それでも俺は行かねばならん! なぜなら! 俺には! 正義を求める声が! 聞こえるからだ!」
あ、すごい、だめだ。あれはほんとに近づいちゃいけない人だ。
遠目にもわかるぐらいきれいな顔をしているのに、飛び出したことばはだいぶ、なんというか、アレな感じだった。向けられた怒声よりも更に大きく、いかにも腹の底から出していますといわんばかりの声も高峯の苦手意識を刺激した。
芝居がかってすら聞こえるが、答えを聞いた蓮巳というらしい男のリアクションを見るに芝居の類ではないらしい。いくらアイドル科だからといって、急にそこらあたりで寸劇が始まるなんて高峯にとって鬱でしかないから、そこだけは不幸中の幸いだった。幸いだろうか? いや、たぶん不幸だ。
ええいごちゃごちゃと、という、悪役然とした台詞を蓮巳なる生徒が吐けば、背後に控えていた他の生徒たちが守沢を囲むように動き始めた。守沢は半円状に迫る生徒たちに背を向けて、包囲が完成するよりも先に駆け出している。向かう先は――
「え、ちょっ、うそ」
こちらだ。高峯は慌てふためいて柵に取りついた。巻き込まれるのはごめんだ。だいたいどうしてこっちに来るんだよ、だって屋上の出入り口はひとつしかないし、守沢の目指す先にあるのは低いフェンスしかない。まさか。
大股にで小走りに詰められた距離はあっという間に埋まる。きっとほんの数秒のできごとだっただろう。高峯にはそのすべてがスローモーションに見えた、そう気づくことすらできない。
守沢の手が、つややかな飴色のフェンスにかかる。ぐっと持ち上がった身体に引きずられて、上履きの爪先がフェンスに乗り上がった。ひとつの迷いもためらいもなく、美しい横顔はフェンスの向こうの、何もない空だけを見つめている。
(――まさか、)
この人、飛ぶのか。
さあっと血の気が引いて、気がついたら高峯は思わず植え込みから立ち上がり、駆け出していた。それに気づいたのか、守沢の横顔がふっと揺れて高峯へと向けられる。
ぞわ、と、背筋が粟立つ感覚に高峯は足を止めた。
目が合った。うららかに注ぐ春の日差しの下の、少し赤みが強い瞳。
あれだけ、アレな台詞を大声で撒き散らしていたのに、守沢の瞳は酷く静かだった。
まるで春ののどかにはほど遠い――すべてを赦し、唾棄し、慈しみ諦めたかのような静かさ。それは高峯が嘯く願いそのものに似ている。
つまりきっと、どこまでも、『死』に近い瞳だった。
その瞳の真ん中に、まるで冬の湖面のように、呆然と立ち尽くす高峯自身を映している。高峯は囚われている。
――駄目だ、と思った。
強張る身体を無理矢理動かして、油の足りない人形みたいにぎこちなく、その深とした赤い瞳を脱け出す。光がちかりと瞬いた。守沢は少しだけ目を瞠ったようだった。
今度こそ、『目が合った』。
ただ映っているのではない。守沢が、明確な意思を持って高峯を見つめている。さっきよりも大きく映り込む自分がらしくなく必死に手を伸ばしている――高峯が知覚したのとほとんど同時に、すうっと守沢の瞳が細められた。
(あ、)
笑った。
花がほころぶようなそれを、きれいだと思った。
指先が届く寸前の不意打ちの笑みに、せっかく動き出した高峯の足がまた止まってしまう。
瞬間、フェンスを踏む守沢の足がぐっと沈み込んで、そして――飛んだ。
青いブレザーの背が、薄水色の空に溶ける。緑のネクタイがふわりと浮いて、そして甘い茶色の髪が宙にばらける。
すべてが高峯のほんの指の先で。そして振り向いたような気がした。花のような微笑が高峯を見据えて、交わる。視線がぶつかったのはほんの、ほんの一刹那のことで、そして落ちていく。
予想されうる惨劇に目を覆うことも叶わなかったが、それは杞憂だった。
守沢の身体は落下して、そして地上の茂みの中に沈んでいった。冬から覚めたばかりの青い葉の擦れる音がざざざと尾を引いて、そして音が止むと同時にひょっこりと、草葉を乗っけた守沢の頭が低い植え込みの中に浮かび上がる。
背後でばたばたと足音が聞こえた。ようやく駆けつけた蓮巳たちがフェンス際から地上を見下ろしているのだろう。高峯は振り仰ぐ守沢だけを見つめていたため、振り向いて確かめることも叶わない。
「ふはははは、すまんな蓮巳! 俺の正義は誰にも止められん……☆」
呆然とする天上にそう笑いかける守沢は、既に先ほどまでの守沢に相違なかった。地上から屋上までの距離を物ともしない腹の底からの声で正義とやらを叫んで、何ごともなかったかのように駆け出している。
高峯は何も言えないまま、ガーデンスペースから軽やかに去ってゆく背を見送るしかない。隣では深い深い、地上まで落っこちて沈み込んでそのまま地球の反対側まで届いてしまいそうな溜め息がこぼれている。続く声は、さながら地の底から響くかのような重々しさだった。
「…………全く以って、度し難い…………」
蓮巳はその呻き声で切り替えたのか、眼鏡のブリッジを押し上げてくるりと振り向いた。背後で集まっていた生徒たちに、これ以上無理に追うことはない、通常の業務に戻れ、ただし万が一校内で見かけた際は生徒会室に連行するように、などと指示している。鋭い返事で蓮巳以外の生徒たちは速やかに屋上を去っていく。
いくつもの足音が遠ざかり、蓮巳はまたひとつ溜め息をついた。それからくるりと、今度は高峯の方へと向き直る。思わず縮こまる高峯の、赤いネクタイがひらめく胸元で眼鏡の向こうの視線が留まる。
「新入生か」
ッス、という、上級生に対していささか不適当な返事をしたつもりだったが、声にすらならなかった。まるでことばがカラカラの喉にぺったりと貼りついてしまったようだ。
もうやだ、間違ってアイドル科に入学しただけでも鬱なのに、怖そうな上級生と一対一で対峙するはめになるなんて。死にたい。どうして初日からこんなことに。
ぐるぐると回る陰鬱な思考のスパイラルの中心には、ひとりの男がいる。どう考えてもあの、守沢って人のせいだ。
蓮巳は癖なのだろうか、また眼鏡を押し上げている。幸い、返事をしなかったことを咎められはしなかった。
「何をしていたのかは知らないが、生徒会では特別な用もなく屋上に立ち入ることを推奨していない。用がないのなら早々に帰って明日からの授業に備えることだ」
そのレンズの向こうの瞳が一瞬屋上の隅の方に向けられたが、高峯には視線を追って確かめる気力もない。視界の端で捉える限りでは何か長い板のようなものが立てかけられているようだったが、高峯にはきっと関係のないことである。
言うだけ言って蓮巳は踵を返し、足早に出入り口の方へと向かう。が、突然高峯を振り返った。
「それから、言うまでもないことだと思うが! さっきの男のような真似は決してしないように!」
本当に言うまでもない。屋上から飛び下りて地上までショートカットする人間なんて普通いない。そもそも屋上から飛び下りたら死ぬし、そうでなくても大怪我は免れない。
(あ、矛盾)
言うまでもない。だって屋上から飛び下りたら死ぬから。
やっぱり、ほら。自分は屋上から飛ぼうとも、死のうとも、思っていないのだ。
蓮巳は今度こそ高峯を置き去りに、屋上を去っていった。ひとり取り残された高峯は、さっきまでの騒動が嘘みたいな静けさの中、フェンスの向こうを見つめる。
どこかぼんやりとした、春の穏やかな空気、空、水色。そこに溶けるような背と、落ちてゆく姿。そうっと下を覗き込むが、やっぱり何ごともなかったかのように、やさしい色合いの花々や鮮やかな緑が茂る庭園が広がっているだけだった。
(……帰ろう)
あの、蓮巳という上級生の言うとおりだ。ここには一人になれる場所を求めてたまたま辿り着いただけで、用はない。明日からの鬱々とした日々に備えて、帰って昼寝でもしていたほうがまだ有意義だ。
高峯は鞄を担ぎ直し、よろよろと歩き始めた。きっとものの数分のできごとだったのだろうが、なんだかどっと疲れた。辿り着いた扉のノブに手をかけ、細く開いたドアを肩で押すようにしながらようよう屋上を出た。
扉に向き直り、ゆっくりと閉める。細く閉ざされていく空中庭園の向こうに、あの溶けゆく背が見えるようだった。
(欝だ、死にたいなんて)
口だけ。ほんとは死のうなんて微塵も思っていないのだけれど。
――目の前で本当に『飛んでしまった』あの人は、どうなんだろう。
高峯の脳裏には、赤みを帯びた静かな瞳がちらついている。
答えを得る機会はすぐに訪れた。訪れてしまった。
あちらこちらへ散らばっていた生徒たちも帰ったのか、それとも落ち着く場所を見つけたのか、とぼとぼと歩く道中ではほとんど人の影を見なかった。誰にも会わなかったことにほっとしながら昇降口に辿り着き、上履きからスニーカーに履き替える。薄暗い屋内から外へ出て短い家路につこうとした、まさにその時である。
「おお! さっき上で会ったな……☆」
げ、と思わず声が漏れてしまったのは仕方がない。噴水の縁に足を伸ばして守沢が腰かけていた。高峯を見るなりぱっと顔を上げて、その目は異様にキラキラと輝いている。
(……何なんだ、この人)
あの、飛んだ瞬間の瞳とはあまりにも違う。
本当に同じ人間なのか? いや、そもそも自分の見間違い、あるいは考え過ぎなのか。だってどう見てもこの人は鬱とか希死念慮とか、そういう負の思考感情とは真逆の人間だ。語尾にびっくりマークとか星とかついてそうな口調なんて、陽の気質のお手本みたいだ。
何にせよ声をかけられて目が合ってしまった以上、見なかったことにして通り過ぎるのも難しい。とはいえうまい返答が思いつくわけでもなく、高峯はただ足を止めた。すると守沢は喜々として立ち上がり、こちらへ向かってこようとする。
ええ何、なんでこっち来るの。こっち来る理由ないじゃん。高峯は癖のように目を伏せて身を縮こまらせた。
しかし、屋上であれだけアグレッシブに立ち回っていたわりに、なかなか近くに来る気配がない。そろそろと目線を上げて窺えば、守沢はひょこ、ひょこと、右足を庇うようにしてゆっくりと歩み寄ってきている。
逃げようもないし、もちろん高峯から歩み寄れるわけもない。持て余した曖昧な時間に、つい、声が漏れた。今度はきちんと声が出たのは、幸か不幸か。
「……あの、足」
「ん? ああ、着地のときに捻ってしまったみたいでなあ」
ひょこっとまた一歩踏み出して、こともなげに守沢は答えた。
屋上から飛び下りたのに足を捻った、ぐらいですむものなのだろうか。しかも地上に下りた後、走り去っていったんじゃなかったか、この人は。そもそも屋上から飛び下りるという行為がおかしいのだが……駄目だ、突っ込みどころが多すぎて頭痛がしそう。夢ノ咲学院アイドル科って、こういう非常識が日常的にまかり通るところなのか? こんなところで三年間もやっていけるはずがない。
こめかみを押さえて唸れば、ようやく高峯の目の前まで辿り着いた守沢が険しい表情を浮かべた。
「どうした、貧血か? 何なら保健室まで連れて行ってやるぞ!」
「いや、たぶん貧血じゃなくて……ていうか、あんたの方が大丈夫なんスか」
そんなひょこひょこ歩きで連れて行ってやるぞ、も何もないだろうに。高峯の疑問に、守沢は不思議そうに首を傾げた。
「ん? 何がだ?」
「何がって、その足。あんたこそそれ、保健室行ったの?」
途端、守沢が目を瞠った。
自分は何かおかしいことを言っただろうか、少なくとも目の前のこの上級生よりはおかしくないはずだが。一瞬思案してすぐに思い至った。やばい、敬語。それにさっきから「あんた」って呼んでる。これか。
いくら様子がおかしくても相手はあくまで上級生だし、こっちは右も左もわからない新入生だ。入学早々礼儀がなってない、とか言ってシメられたりするのだろうか。中学の頃、背が高いというだけでガンつけてきただのなんだのと怖い人たちに絡まれた記憶が高峯の脳裏に蘇る。
ビクビクしながら窺うが、そこにある表情は高峯が思い浮かべたものとはまるで違った。見開かれていた目がじわじわと細められて、その弧を描いた奥にはちかちかと星が光っている。
眩しくて、身じろいで、そんな高峯の目の前にぬっと手のひらが差し出された。
「おまえは優しい子だなあ。よぉしよしよし……☆」
「え、うわっ……!」
そのままちいさい子どもにするように、頭を撫でられた。
ぐしゃぐしゃと髪までかき混ぜられて、ときどき守沢の指先が耳の端っこを掠める。触れた体温が熱くて肩を竦めた。二次性徴でぐんぐん背が伸びたせいでこんなふうにわざわざ下から手を伸ばして頭を撫でてくるような人間はいなかったし、親に頭を撫でてもらったのだって遥か昔のことだ。だからこんなときどうしたらいいのか、わからない。
どうして急にこんなことになったのか、混乱していた頭がわしわし撫でられるうちに平静を取り戻し始める。
よく考えたらこれは、恥ずかしい。
それにこんな図体のでかい男が、先輩とはいえ同じ高校生に頭を撫でられているなんて。もしも誰かがここを通ったら目を引くこと間違いなしだ。そんなことになったら明日からもう学校に来られる自信がない。入学二日目にして不登校決定だし、その前に恥ずかしくて死ぬ。
「何、あの、やめて……くださいっ」
「お、おおっ?」
控えめに、でもちょっとだけ語気を強めて一歩引いた。熱い手のひらが遠ざかってほっとする。
が、代わりに守沢の身体がぐらりと、前のめりに倒れてくる。空に溶けた守沢の背が、ふわりとばらけた茶色の髪が嫌でも高峯の頭をよぎった。
さっと血の気が引いて、気づけば手を伸ばしている。ぼすん、と意外に軽い衝撃とともに、守沢の身体が高峯の腕に収まった。
「……っぶねぇ」
「おお、すまんな……☆」
「いえ……ていうか、」
守沢は人を疑うことなんて知らないような、きらきらした目で高峯を見上げている。暑苦しいそれを前に、俺のせいですし、ということばは呑み込んでしまった。
代わりに無理矢理、話題を元に戻す。
「だから、その足、行ったんスか。保健室」
「ううむ」
間近で見下ろせば、守沢は屋外だというのに上履きだった。上履きにもチェック柄のスラックスにも小さな木の葉が何枚もくっついていて、いかにもどこかの茂みを分け入って歩きました、という風体である。
唸ったまま答えない守沢は、露骨に視線を逸らしている。きっと屋上から飛び下りてそのまま外をうろうろしていたのだろう、想像に易い。いや、捻ったんならさっさと保健室行けよ、入学式だけど保健医ぐらいいるだろ、ということばは再び呑み込んだ。
「屋上から飛んだんでしょ。骨折……じゃないかも知んねぇけど、ヒビでも入ってたらどうするんスか」
「う、うむ……」
逸らされた視線が泳ぎ始める。それでもまだ歯切れの悪い返事に、高峯はほんの少しばかり苛立った。
何か理由でもあるのか、屋上から飛んで足を痛めて、それを放置する理由が? 高峯には考えられない。だって痛いのは嫌だし、早く治したいし、保健室というのはうまくやればベッドで寝て授業からエスケープできる、素敵なところだ。
……というのは高峯の理想であって、実際はどうなのか知らないけれど。授業という団体行動から抜けられるのは万々歳だが保健室に行くとなると目立つし。なので中学までの高峯が保健室エスケープを実行したことはない。
が、守沢は明らかに怪我人である。こんなところで、高峯の目の前でグズグズしてないでさっさと行ってほしい。ここまで来たら「じゃあお大事に」なんて言って帰りにくいし、高峯がこの場から立ち去れないなら守沢に移動してもらうしかない。
のに。
煮え切らない様子の守沢を高峯は見下ろした。しばらく見下ろしたが、守沢は噴水の水面に視線を泳がせるばかりで微塵も動く気配はない。
仕方なく、高峯は守沢の身体を引っ張った。びっくりしたのか硬直した腕を自分の肩に回せば、下げていた鞄の重みに少しだけ守沢のそれが重なる。それでも家の手伝いで持たされる段ボール箱よりはずっと軽い。
「どこ」
「な、何がだ?」
しぱしぱと目を瞬かせる守沢に端的に答えた。
「保健室。肩貸しますから」
守沢がこの場を去るのを待つより、自分が守沢を連れて行って保健室に押し込むほうが恐らく早い。この先輩ともうしばらく一緒にいるのは苦痛だが、帰りたい一心で高峯はそう判断した。
言われている意味を理解したのか、守沢の目がまた、じわじわと見開かれていく。最後にはふっと、少しだけ、困ったように笑った。
「……少しここに用事があったんだ。だが今はいないみたいだしな」
そう言う守沢の視線は、穏やかに春の陽光を照り返す噴水に向けられている。
しかしそれは一瞬のことで、すぐに、ついと口角を上げた。あの暑苦しい視線で見上げられて、高峯は早くも自分の選択を後悔した。
「うん、お言葉に甘えるとしよう! よろしく頼む!」
「ぅぐっ……ッス」
ぶら下がるように重みをかけられて呻く。相変わらずキラキラした目に文句をつける気すら削がれる。
せめてと盛大に溜息をついてみるが守沢が意に介す様子はない。高峯の肩に引っかけた腕をまっすぐに伸ばして、びしりと校舎を指差している。
「保健室はこっちだな、昇降口を突っ切ると早いぞ! おまえもこれから世話になるだろうから覚えておくといい……☆」
「はあ」
「そうだ、せっかく助けてもらったのに『おまえ』では悪いな! 名前を教えてくれないか?」
助けるとか、そういう善意からの行動ではなく、間接的な厄介払いなのだが。
若干の罪悪感は、守沢の問いと相殺された。高峯にとって名前は身長の次ぐらいにコンプレックスだ。
うう、と呻いてみたとて、ここで答えないのも変だ。名乗りほどの者ではありません、とか答えたら逆に食いつかれそうだし。そもそもそんな芝居がかった言い回しができるのなら、高峯はもっと楽に生きている。
「高峯です。高峯……翠」
守沢の指差す方にゆっくりと歩き出しながら、せめてもの抵抗に小声で答える。
が、肩を組んでいる近さで守沢が聞き逃すはずもない。ひょこり、ひょこりと、高峯と同じ歩調で進みながら感じ入ったように目を細めて、たかみね、みどりと囁いている。吐息混じりに紡がれる自分の名前に、高峯はいやにどぎまぎした。
とはいえそんな密やかな空気は長く続くこともなく、守沢は微笑んで鷹揚に頷いた。
「うん、良い名前だな。とても良い」
「……バカにしてます?」
「うん? 何故だ?」
首を傾げる守沢に、また高峯の溜め息。いちいち答えないとわかってくれないなんて、鬱だ。
「女の子みたいって、よく言われるんで。ていうか、男の名前だってまず気づいてもらえないし」
おまけに、実家が八百屋で『みどり』かよ、なんて笑い者にされる始末だ。年齢が上がるに連れてそんな幼稚なからかいは減っていったけれど、やっぱり折りにつけてちょこちょこネタにされるし、小学生の頃なんて本当に酷かった。思い出すだけで鬱だ。
暗澹たる過去を思い返す高峯に、ふうん、なんて声を上げながら、守沢は首を傾げている。
「俺はそうは思わんがなあ。男か女かわからない名前なんて、今時いくらでもいるだろう。かくいう俺も半々の確率で性別を間違えられるぞ!」
「……そうなんスか?」
この人もこう見えて名前にコンプレックス持ち仲間なのだろうか。
ちょっとばかりの期待を込めながら見つめれば、守沢は何故か自由な方の手を天に掲げてびしりと太陽を指差した。そしてそのまま素早く腕を下ろし、胸元でぐっと拳を握ってみせる。ええ、何、なんで今空指差したの。
「千秋だ。燃えるハートの守沢千秋! 『強く、凛々しく、頼もしい』先輩だと後輩たちからはもっぱらの評判だ! 評判になる予定だ! 俺は信じている! 信じる心こそ力! 人はそれを絆と呼ぶんだ……☆」
すごい。
すごいうざい。うるさい。耳元でやめてほしい。
そうだ、ちょっとばかりマトモそうなやり取りをしていたせいでうっかりしていた。この人、正義が俺を呼んでいる、とか意味不明なことを叫びながら屋上から飛び下りるようなアレな人だった。
顔を背けてできる限り距離を取ろうとしたが、守沢はあの暑苦しいキラキラした瞳で高峯を見つめながら顔を近づけてくる。
「高峯は新入生だな! 入学したてで戸惑うことも多いだろうが、これも何かの縁だからな、どうか気安く俺を頼ってほしい!」
「はあ、まあ、はい」
気のない高峯の返事など意にも介さない。うんうん満足気に頷いて、それから今度は高峯の胸元で視線を留める。
「懐かしいな、赤いネクタイ」
そういえば、夢ノ咲学院では学年ごとにネクタイの色が決まっているらしい。制服を買いに行ったときに、毎年ネクタイやらジャージやら買い換えなきゃなんねえのかよ面倒くさい、と思って口に出したら、それでも中学の頃よりは安いわよ、と母に言われたことを思い出す。ハイペースに背が伸びすぎて、毎年どころか半年に一度制服を買い換えていた中学時代は高峯にとって黒歴史だ。
さすがに高校ではそんなことはないと思いたい。シクシク痛みそうになる腹を守沢を支えていない方の手で押さえつつ、それで結局、緑色のネクタイは何年生だっけと思い至る。
答えは訊くまでもなくもたらされた。守沢がぐっと胸を反らせて、緑のネクタイがびよんと跳ねた。
「一年生の頃の俺よ、見ているか! 迷える新入生を導けるまでになった、三年生の俺の姿を!」
「ちょっと、急に耳元で叫ぶのやめて……ていうか迷ってねえし、どっちかっていうとあんたが俺に導かれてるでしょ、格好的に」
この人これで最高学年なの。高校三年生って、もっと落ち着いてると思ってた。やばい、自分は決してこんな人間にはなるまい。
早く保健室に捨ててしまいたい、この人。なのにいちいちアクションが大きいのでその都度足が止まってしまう。胸張ってないで早く歩いてほしい。歩きにくい。
「もうちょっと、寄っかかってもいいっスよ」
「そうか、うむ、ならばそうさせてもらおう。高峯は一年生なのに背が高くて頼りがいがあるな……☆」
引っ張り寄せるようにすると、守沢はまた素直に体重を預けてきた。
背が高い、と言われるのは嫌だけれど、頼りがいがある、と言われるのは、嬉しい。かもしれない。ちょっとだけ。
頼りがいがあるなんて、生まれて初めて言われた気がする。たいてい、高峯は背が高いのに怖がりだし後ろ向きだし意外だよなあ、なんて、減点方式で見られるばかりだから。
だからといって、ありがとうございます、なんて素直に礼を言えるわけでもない。いちいち言うことでもない気がするし。
返しようがなくて、気づかれないように隣を盗み見る。守沢は高峯に半身を預けたことで安心したのだろうか、足元を見ながらゆっくりと一歩ずつ歩いている。
言動も行動もうるさい人だが、こうして黙って横顔を見つめると、屋上で遠目に見た通り、相当整った顔立ちだと実感する。シャープだけれど細すぎない顔の輪郭に、すうっと通った鼻筋、薄い唇、きりっとして整った眉に、ちょうどいい大きさの瞳。まつ毛だって長い。
いかにも、イケメン、アイドル、といった顔立ちだ。ふだんの高峯なら眩しすぎて決して近寄れない・近寄らないような人間だ。きっとこのアイドル科にはそんな人間がゴロゴロいるんだろうけれど、何がどうしてそんなイケメンを担いで歩くことになったのかといえば、不幸か、あるいは運命だろう。
嘆くべきか受け入れるべきか、そんな現実に直面する高峯のことなどつゆ知らず、また守沢が口を開いた。
「ところで高峯は、屋上で何をしていたんだ?」
「何って……まあ、学校探検、って感じっスかね」
間違った科に入学して家に帰りにくくて、だからと言って人が多いところにいたくもないし、一人になれる静かな場所を探してました。
と、馬鹿正直に答えれば、突かれたくないところをひとつひとつ掘り返されることうけ合いだ。高峯は当たり障りのなさそうなことばを選んで、すると守沢はうんうんと頷いた。
「そうか。今日は天気もいいし、暖かいし、風も気持ちいいからな。屋上に出たくなる気持ちはよくわかるぞ」
言って守沢は空を見上げる。
高峯もつられて目線を上げた。まるで西洋の城のような外観の校舎と、その向こうに広がる薄い青色をした空が見える。
確かに良い天気だった。これでもしも雨だったら、記念すべき高校生活最初の日を今以上にどんよりした気持ちで迎えていただろう。
「……本当に、良い日だ。新しい門出を祝うにふさわしい。入学式日和だな」
目の前をひらり、薄いピンク色が舞った。どこからか飛ばされてきたのだろうか、ちいさなハート型のそれは桜の花びらだ。
遅れて少し強い風が吹き抜ける。花びらがくるくると舞い上がって、高峯は目を細めてその行く末を見守った。
「本当に、」
守沢の、囁くような声が風に乗った。高峯は反射的に守沢を見る。守沢はくるくると舞い上がる声を、じいっと見送っている。
「今日は、死ぬには良い日だ」
ちいさなハートと一緒に天に上って、太陽の逆光の中に消えた。高峯はその様を、守沢の瞳の中に見ていた。
あの、屋上で振り返った静けさがある。赤茶けた瞳に沈んでいる。
赦し、唾棄し、慈しむ――限りなく『死』に近い感情で、守沢千秋は空を見ている。
ばちばちと水が地に落ちて、弾ける音がする。
まだ雨が降っている、と高峯が知覚すると同時に、密やかな囁きが頭上から落ちてくる。
「……今日は、死ぬには良い日だなあ」
――守沢先輩。
ばちりと目を開けて、高峯は身体を起こした。肩や背中が少し痛むのは無理な姿勢で眠っていたからだろうか。寝は浅い方なのだが、姿勢の不自由も厭わないほど深く寝入っていたらしい。それもこれもすぐそこに、眠りを誘う熱があったから。……あったから? ここは、どこだった?
重たい瞼を持ち上げて、緩慢にあたりを見回す。薄暗くて、少しだけ消毒薬の匂いがする。混乱はほんのわずか、すぐに思い出した。学院の保健室だ。
時間は……どうだろう、わからない。窓の向こうはきっと雨だから、余計に。保健室にはさあさあと雨音が満ちている。カーテンがぼんやりと明るいけれど、昼だろうか、朝だろうか。順を追って思い出す。
昼に守沢先輩が倒れて、転校生の先輩と一緒に保健室に担ぎ込んで、そこからいろいろと明日のことを、薬を飲んで眠ってしまった守沢先輩以外のみんなと話し合って。
守沢先輩はちっとも起きないし家の人とも連絡がつかないから、佐賀美先生に許可をもらってそのまま寝かせて、みんなで交代で看病することにして。それで俺は……家が近くてすぐに行き来ができるから、夜中の看病をすることになったんだ。
夜中の学院なんて怖くて仕方なかったけれど、俺が手を挙げなければ転校生さんが夜中付きっきりで看病しそうな流れだったから。年頃の女の子を夜中の学院に、風邪で寝込んでいるとはいえ男の先輩と二人っきりにするわけにはいかない。だから渋々だった。最悪、何かあったら守沢先輩を布団から蹴り出してでも叩き起こそう、そう決めて。
だからつまり、いつの間にか眠ってしまったんだろう。思い出すうちに高峯の目も薄闇に慣れてきた。すると目の前のベッドの上に、ぼんやりと人のかたちが見えるのに気づく。
一瞬悲鳴を上げそうになったけれど、自分は守沢のベッドの隣に椅子を置いてそこでうとうとしていたから、これは守沢のはずだ。
ポケットを探って、スマートフォンを取り出す。ボタンを押すとホーム画面に時刻が表示された。午前五時過ぎ。朝になったら転校生の先輩が来てくれるはずだけど、まだその時間には早い。画面を操作してライトを点ける。
「……守沢先輩?」
白すぎる光が奇妙な陰影で室内の様子を浮かび上がらせる。高峯の視界は刹那、守沢を捉えた。寝ているうちに汗をかいたのだろう、前髪が額にはりついていて、白い頬には水の伝った痕と、赤が――そこで視界が閉ざされた。
高峯の目元を覆うものがある。黒い布越しにも伝わる、高い熱を倦んでしっとりと濡れたそれ。顔の輪郭をたどるように動いて、最後にはぐしゃぐしゃと髪の毛を混ぜてくる。けれど決して、高峯の視界を許さない。
触れる熱の下、高峯はぱちりと瞬いた。ぱちぱちと続けて瞬けば、睫毛の感触がくすぐったいのだろうか、視界を覆う影が少しだけ揺れる。細い細い隙間ができて、光がこぼれてくる。
汗、拭いてあげたほうがいいのかな。その前にまず、せめてジャケットは脱がせて寝かせてやればよかった。グローブも。まだ熱高そう? でも薬はすぐ効いたみたいだし、寝起きだから熱いだけかも。でも、目元、真っ赤で、潤んでて、まるで泣いてるみたいで。
――かわいそう。
「……なにそれ」
かわいそうって、なに、それ。俺が、先輩に?
ぼろりと落ちた声は、存外と大きく雨越しの室内に響いた。隙間の向こうで、はらりと水の粒が落ちる。大きくて、きれいで、透明なしずくが、スマートフォンの強すぎる光に瞬いて消えた。
「せんぱい、手」
「……たかみねは、やさしい子だなあ」
春の空の下で聞いたことばが、ちぐはぐに返ってきた。
少し掠れた守沢の声。また隙間の光が閉ざされて、ゆるく前髪をかき混ぜられる。守沢の、熱すぎる手は、吸いついたみたいに離れない。
高峯に守沢を見ることを許してくれない。
「手、どけて」
「看病してくれていたんだろう。怖がりのお前に夜の学校に付き添わせて、すまなかったなあ」
「先輩!」
ごとんと大きな音がして、白い光がひっくり返る。落ちたスマートフォンはその無駄な光量を床に注いで、また保健室は薄闇に溶けていく。
高峯は小さな端末を放り投げた手で守沢の手首を掴み、抵抗を封じるように熱っぽい身体をベッドへ押し倒した。
一緒くたになってベッドに倒れ込みながら、この人、案外軽いんだよな、なんて、そんなことを思った。そうしてぼすん、と鈍い衝撃と共に、開かれた視界の中ようやく守沢の姿が明らかになる。
ライトは落としてしまったし、覆い被さる高峯自身が影になっているせいでその輪郭はぼんやりと溶けている。それでもまだ熱っぽい表情や、浮いた汗がじんわりと光っていることや、赤みがかった瞳が濡れていることはわかった。
泣いているみたいに見えた。でも、それを問いただす勇気を高峯は持っていなかった。
押し倒した高峯と押し倒された守沢の間には、静かな雨の音だけが横たわっている。
さあさあとさやかな音を先に破ったのは、守沢だった。
「……夢だったんだ」
濡れた目尻に、どうしようもなく優しい囁き。
だから高峯にはわからない。
その夢が守沢にとって悲しいものだったのか、嬉しいものだったのか。眠るうちに見たものなのか、願う未来のことなのか。
「きっと、今も。夢だ。そういうことにしておいてくれるか」
薄暗い夜明け前に、守沢が少しだけ首を傾げる。内緒話を打ち上げるような、むずがる子どもをなだめるような悪戯めいた響きだ。何がそういうこと、なのかはわからず、ただ守沢にとって高峯は『子ども』なのだと、それだけがわかる。
悲しくて、あるいは惨めだった。だから最後の抵抗に、曖昧に頷いた。俺は納得なんてしませんでしたよ、と、後から言い訳ができるようなぼんやりした首肯はやっぱり惨めだったし、守沢はそれすらも看過しているかのような穏やかなひとみをしている。正義の赤が熾火のようにちらついていた。
その炎に、陽炎のように揺れる景色が見える。
「なあ高峯。あの屋上から飛んだ人間が、今まで一人もいなかったと思うか」
高峯は、息を呑んだ。
先ほど、夢と現の狭間に聞いた台詞。以前も同じ台詞を聞いたことがある。
守沢と出逢った春の記憶が脳裏を駆け抜けて、目の前の熾火と重なった。あの、静かに宙空を見つめるひとみ。
歌うように、守沢は囁く。どこか陶然とした声。甘い毒が滴っている。
「アイドルという光と、影に、絶望した人間がいないと思うか。この学院がきらびやかで美しくて眩しいだけの場所だと思うか」
右も左もわからないまま入学した四月から、梅雨の今まで。高峯はおよそ三ヶ月をかけて、なんとなく自分のいる場所を掴んできた。
例えば、夢ノ咲学院という構造。半ば強引に所属することになった『流星隊』でまともに経験も積まないうちから参加させられ、そして初戦から強豪『fine』に挑み敗北を喫した【DDD】。部活でも浮かない顔をしていた、あるいは何故か一緒にレッスンを受けることになった先輩たちの所属する、最後には学院の頂点まで上り詰めた『Trickstar』。
入学したばかりの高峯には実際何があったのかはわからなかった。けれども恐らく、深く暗く冷たい夜があの星とともに明けたこと、それだけはわかった。
守沢が言っているのは、きっとそういうことだろう。高峯は一番夜の深かった時代を知らない。知らないなりに、その闇を彷徨う生徒たちの懊悩はきっと、自分が気安く口にする『死にたい』とは比べ物にならない絶望だったのだろうと、それぐらいの想像はできる。
「お前だけじゃない。同じことを考えた人間はいくらでもいただろう」
夢ノ咲学院は、縮図だ。高峯は入学式の当日に抱いた『アイドル』像が間違っていたことをもう知っている。
一歩間違えば奈落に落ちるような闇がついて回る、蹴落とし合いや裏切りや傲慢や怠慢が隙を窺っている。
心から笑えないことも、思うように動けないことも、きっといくらだってある。それでも神経を摩耗させ、絶望を押し隠して、歌い、踊り、笑う。『アイドル』とは、そういうものなのだ。
「……おれもおまえと、同じだからなあ」
そう言う守沢は、笑っていた。
ああ、やっぱり、と思う。
この人は、バカみたいなヒーローごっこをしているわけじゃない。奇跡的に危険予知能力が欠けているわけでも、超人的な身体能力を持っているわけでもない。
「フェンスを踏み越えるたびに思う。これで終わりだと。ありがたいことに終わったことはないがな」
落ちたら、死ぬ。
そんな当たり前をいつもいつも飛び越えている。正義のヒーローの顔をして、緩慢な自殺を繰り返している。
「……先輩は」
貼り付きそうな喉から絞り出した声は、震えを隠しているのが丸わかりだっただろう。
「死にたいんスか」
「いいや。……今はな」
即答の後に付け足されたことばは不穏だ。なのに微笑みすら浮かんでいて、わからなくなる。
かつてそうだったのか、いずれそう思うのか。空に溶ける瞬間は別なのか。わからない。わからない。守沢千秋という人間が。
「死んでもいいと思っているし、死んではいけないと思っている。着地に失敗して死んだヒーローはいないだろう。だから死んでしまったのなら、俺はヒーローじゃない。ヒーローじゃなくても、俺が死んだら悲しむ人がいる」
両親より先に死ぬような最大の親不孝を働くわけにはいかんからな。そんなこと、朗らかに付け足されたって、困る。
この人は、おかしい。
最初からわかっていたことだけれど、高峯が思っていたよりもずっと深く、捻れたおかしさを持っている。
こんな立つことすら難しいような歪さで、なのに一見すると曲がったことなんて許さないような、真っ直ぐ過ぎるほど真っ直ぐな人間にしか見えないなんて、変だ。
真夜中は別の顔。そんなことばが高峯の頭をよぎった。夜明け前も、別の顔だろうか。
あるいは、夢だと言った。今も夢なのだと。今語られる守沢の心は、高峯の夢なのか? まだ自分は、守沢先輩の眠るベッドの端に俯せて眠っているのだろうか。
ふわりと、額に触れるものがあった。
「おまえはまだ、あの線を超えていないだろう」
いつの間にか緩んでいた高峯の腕から、守沢の手が抜け出していた。
守沢は高峯の前髪をかきあげて、じいっと目線を合わせくる。守沢のひとみに、高峯のそれはどう映っているのだろうか。
きっとあの、守沢の宿す静かな『死』とはずいぶんと違う色をしているのだろう。自分ではそう思う。守沢だって高峯の口にする『死』が自分の夢想するそれとは異なることはわかっているだろうに。
なのにこんなことを言う。
「だから守ろう。おまえを、おまえたちを、あの影から」
愛おしげな手つきで、高峯を宥めながら。
歪な姿で、その線を飛び越えて、正義を謳って、そうして子どもたちを――高峯を、空へと押し上げようとする。
「ただ眩い光の中で、美しいものだけを見て、進んでいけ。そして続く夜道を照らす、流星になってくれるか」
高峯は下唇を噛む。守沢のことばは、酷く勝手だと思った。
だって別に、高峯は光り輝く存在になんかなりたくない。もっと普通に、夜空を見上げて土を踏んで、暗いと思ったらスマートフォンを電灯代わりにする程度のただの人間でいたい。ただの、面倒臭がりで、死にたいが口癖で、でも死ぬ気なんかさらさらなくて――無条件に肯定と愛を注いで守ってくれる誰かを待つばかりの、甘えな人間でいたいのだ。
守沢は酷く勝手で、腹が立つ。高峯を見つけて、すくい上げて、無条件に肯定と愛を注いで高峯にとって心地良い居場所を作り上げておいて。
なのに尊く輝く何かになれ、なんて言う。
「先輩は、」
何より、一番腹立たしいのは、
「何になるんスか」
「……だからお前はやさしいんだ」
高峯が唸れば、守沢はふふふと声に出して笑った。
「おれは、おまえたちを守ることで、おれでいよう。強く、凛々しく、頼もしい先輩に。真っ赤に燃える命の太陽、流星レッドに」
「ちがうでしょ」
そんなの、詭弁だ。口だけだ。俺の「死にたい」と同じだ。
守沢は、そんな人間になろうなんて思っていない。思っていないけど、思っている、さっきの本人のことばを借りるなら、それだ。だって、確かに高峯たちを守ることでよくわからない『自分』になろうとしているのは本当だろうけれど、でも、高峯に託した流星の願いの中に、守沢は入っていなかった。
飛び下りて無様に落ちて地上で砕ける、星になれなかった土塊だ。大地に還って地球の一部になって、届きもしない重力で光年向こうの星を見上げる。守沢はそういう存在であろうとしている。
だから――何より一番、腹立たしいのは、守沢が勝手に自己完結して、高峯から離れた存在のつもりでいること。
高峯に注ぐ肯定と愛が、高峯からは遠いことだ。
「あんたは、全然強くも凛々しくも頼もしくもないし、ヒーローなんかじゃない。おれにとってはウザくて声がでかくて、面倒くさくて、できれば一生関わりたくない人です」
「……言うなあ」
「聞いて、せんぱい」
苦笑してはぐらかそうとする守沢は捕まえた。愛を与えるかたちで遠ざけていた、撫でる手のひらは額を押しつけて振り払った。ぺとりと熱を帯びた頬を手のひらで挟んで、その案外と細い輪郭を辿った。
今はすべて、高峯の手の中にある。目の前に、覆い被さるからだの下に、あと少し顔を上げれば唇が触れ合うほどの距離にいる。
赤が差す静かなひとみ。影と土塊を願う自称だけの流星。かわいそうなひと。可愛そうな人。
これは、誰だ。
「おれが知らないあんたのことは知らないし……でも、全部ひっくるめて、そういうのの前に、あんたは――守沢千秋、でしょう」
守沢千秋だ。
薄闇が少しずつ溶けて流れ出してゆく。雨音が、遠ざかってゆく。代わりに降りそこねた水は地に溜まるのではなく、高峯の目の前に留まっている。赤を溶かして、洗い流してゆく。
その軌跡が白い頬に刻まれてゆくさまを、高峯は黙って見つめていた。高峯の指の先に触れた水の珠は、ぱちりと音を立てて弾けた。あとにはまっさらな、守沢千秋が横たわっている。
重みに耐えかねて、高峯は引かれていった。瞳を閉じて、眠りを誘う熱に顔を埋める。瞼の裏では、流れ星が堕ちる土塊をすくい上げて、光と熱を分け与えるすがたを見ている。
(ああ、おれは)
可愛そうなのだ、この人が。
ひかれているのだ、おちるぐらいには。
重なる身体の熱が、心地良かった。夜明け前の、一番気温が下がる時間のせいだから、だけではなくて。温もりたくて、そろりと、抱き寄せてみる。
「……今日は、死ぬには、良い日だ」
耳元をくすぐる声に、少しだけ頭を持ち上げた。重たい瞼を持ち上げて細く開けば、目元を赤く染めた、涙を払い落とした、光を宿す瞳がある。今まででいちばんやさしく微笑んでいるのだと高峯が視認するよりも先に、視界は閉ざされた。背中に回された、しっとりと温い守沢の手のひらが、高峯の身体を引き寄せている。
初めて見たあの瞳を、今も知らないでいる。ただ、どうしようもなく現実だと、この瞳におちたのだと、それだけは知っている。
(沁々三十題/群青三メートル手前)
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