誤射かもしれない
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「隣に並んでいたかった」
...Margikarman/幸介(幸丞と永介)。
...Margikarman/幸介(幸丞と永介)。
底の底まで見透かせそうな、青い水面。春の陽光を受けてきらきらと輝くそこには釣り糸が垂れて、緩慢に波紋を広げている。
長閑だ。実に長閑だ。
果たして釣り竿を握る橘幸介は一人、春のうららのほとりに座り込んで大きく口を開いた。くあ、と間の抜けた欠伸さえ、東雲山の緑に紛れ淡い青の空に溶けてゆく。あまりの長閑さに――つまりは暇を持て余した末、幸介はついに独り言を漏らした。
「かえりたい」
寂しい呟きは水面を揺らすことも草波をそよがすこともなく、山の空気に消えるのみである。虚しい。釣り竿を握る手をわずかばかり脱力させて幸介は項垂れた。
弥生、三月、春休み。高校最後のその貴重な時間を、幸介とて好んで虚しいフィッシングに費やしているわけではない。そもそも東雲山の湖に釣りに行こうと言い出したのはアウトドア好きの幸田太一である。始めの内は太一と幸介の二人で、何が釣れるのかもわからないこの湖水に釣り糸を垂らし、釣果の保証もない釣り勝負と洒落こんでいたのだ。それはいい。何も釣れないとしてもこういう下らない遊びに興じる時間そのものを楽しんでいたのだから。
ところがだ。風の音と冬の眠りから覚めたばかりの虫の声を連れ合いに釣り糸を垂らしていた二人の間に、場違いな電子音が響いた。健気にも山中で電波を拾った、太一の携帯電話だった。しかもそれはよりにもよって、太一が密かに思いを寄せる伊織圭からの電話だったのである。何やら遊びに誘われたらしく、かくして幸介を釣りに誘った張本人たる太一は頭を下げながら山を下っていた。
咎める気はない。幸介は太一が、あの楚々として近寄り難い雰囲気の圭にどれほど憧れているかをよく知っている。がんばってこいよ、と幸介は発破をかけて、釣り竿を担ぐ太一を送り出してやった。
そうして現在の、暇を持て余した孤独な時間に繋がるわけである。
本当は太一が帰った時点で一緒に山を下りてもよかった。そうしなかったのは幸介と同時に太一に釣りに誘われた本郷徹が、バイトから上がったら行くかも、などと言っていたことと、同じく釣りに誘われた川越悠生が、妹の美尋との買い物が終わったら行くかも、などと言っていたこと、これに尽きる。
あくまで「かも」でしかない二人に期待して孤独な釣りを続ける自分は大層なお人好しというか、要領が悪いというか。幸介自身そう思うのだが、ここまで釣りを続けてしまうと意地にもなるというものである。釣り竿を片手で支えて、幸介は自分の携帯電話を取り出した。画面を確認すると一人の釣りを始めておよそ一時間経っている。そして太一のものと違い、サボタージュに走った幸介の携帯電話は圏外を示していた。
「……やっぱりあねきか、ラスターでも連れてくるんだった」
実は祖父・蔵之助から譲り受けた釣り竿を手に家を出ようとした際、今の幸介と同じように暇を持て余しているらしい大学生の姉・葵生に見つかったのである。幼い時分から姉弟揃って祖父に釣りの手ほどきを受けていたこともあって、釣りに行くの私も行きたいなどと食い下がられた。が、太一と一緒の手前、高校生にもなって姉を連れて友だちと遊びに行くというのも恥ずかしく、丁重にお断りしてめでたく葵生の立腹を買った次第である。ご機嫌伺いのつもりで帰りに葵生の好物であるビネガーチップスを買って帰ろうかとも思ったが、「ダイエットの邪魔する気!?」などと更に怒りを煽りそうなので悩むところだ。
葵生に対する態度に比べ幸介にはどこかふてぶてしい愛犬ラスターだが、いつもの散歩コースではなくここ東雲山に連れてきてやればそれなりに喜んでくれただろう。幸介一人の釣りよりももう少し気も紛れたに違いない。
とはいえ、いくらああすればよかった、などと考えても今や後の祭りだ。携帯電話をポケットにしまい込み、幸介はまた釣り竿を握った。はあと溜め息をついて項垂れれば、澄んだ湖面に気落ちした幸介の顔が映り込んでいる。
一人はつまらない。
葵生には悪いかもしれないが、男のきょうだいが欲しかったな、などとたまに思う。誰しも子どものうちに一度や二度は考えるささやかな幻想だ。
男のきょうだいなら、多少歳が離れていたって友だちとの遊びについてくることに姉ほどの羞恥はなかっただろう。歳の近い兄弟なら、いっそ双子ならもっといいかもしれない。
「双子の、弟とか」
友だちと遊ぶときだって、一緒に遊べる。一緒に遊んで、競争したり。同じ学校に行って、同じ家に帰って、同じご飯を食べて、同じように眠って。
幸介の独り言は弥生の風に乗り、溶ける。
東雲山に広がって、そうしてこだまのようにかえってきた。
「でも、ケンカばっかりだよ」
やさしい春風に湖面が揺れて、そこに映る幸介が喋っているように見えた。
幸介は答えた。
「それもいいよ」
「母さんを困らせたり、父さんに叱られたり――『姉ちゃん』に呆れられたり」
「二人ならそれだって楽しいよ」
「羨ましがったり、僻んだり、憎んだりする」
「それも二人だからできるんだろ」
「――『マナ』のこととか」
咲良愛海。バレー部に所属する、サーブの得意なリベロ。臥待岬がお気に入りの、ショートカットのよく似合う快活な幼馴染。
その名前に、幸介はほんの少し言葉を詰まらせた。視線を釣り竿を握る自分の手元や、緑の木々や、春の青空や薄く広がる白い雲なんかに向けて、そうして密かな声で答えた。ほんの少し上擦ってしまったのは気のせいだと思いたい。
「受けて立つさ」
湖面の幸介は眉尻を下げて笑っていた。幸介は居心地が悪くなって、少しだけそっぽを向いた。
「なあ」
してやられたような、はぐらかされたような。逃げられないように気を落ち着けて、神妙な気持ちになる。
「俺はお前といきたかったんだよ。――『永介』」
笑いと共に広がる水面の揺れが、ほんの少し収まる頃に。
幸介は知らない誰かの名前を呼んだ。
「『俺』は生きてるよ。こうすけ」
「そうじゃなくて、」
水面の幸介の答えに、幸介は即座に首を振る。水の向こうで『幸介』は微笑んでいる。
「ふたりで」
「……最初から、『こうすけ』ひとりだったよ。『永介』は『こうすけ』だ」
でも。そうだけれど。間違いなくそうだけれど。
捩じ曲げられ、歪になった因果に仇なした先。見えざる独善と悪意の輪廻からすくわれた正しい姿かたち。この世界。幸介が愛する人たちと過ごす場所。幸せでやさしい今。
そして生と死を偽りの境界が繋ぐ、望まれざる世界。悲哀と怨嗟と悔恨が跋扈するまち。そんなものは存在しなかった。
橘幸介には父の幸博がいて母の美奈子がいて姉の葵生がいて、神蔵之助という祖父と神美帆子という祖母がいる。そこにラスターという愛犬がいて、大切な家族のかたちをなしている。幸介はこの家族と、そして幼馴染の愛海やバンド仲間の太一、徹、悠生たちとの未来を信じている。幸せでいる。橘幸介という一人の人間は、人生を謳歌している。
それでも――
「それでも」
水面の幸介が――『硲永介』という見知らぬ名前の、誰よりもよく知る自分が囁いた。
それは弥生の風に、東雲山の緑に、もう戻らない春の空に消えるだけの声だった。聞こえもしない春の蝉の声に掻き消えてしまうような、そんな幻想が幸介の心を逸らせた。
「そう思ってもらえて、うれしい」
揺れる水面に、存在しない弟が笑っている。
「『僕』はずっと一緒にいる。生きてる。だから――今度こそ、悔いのないように」
ほんの十二歳で歩みを止めてしまった永介。その、耳に馴染む間もなかった、声変わりをしたばかりの幼い声が、今の幸介よりもずっと大人びた響きで、吹き抜ける風に舞い上がる。
「心の向くままに、生きよう。幸丞」
それは限りない未来を仰ぎ、信じ、猶予を疎むこともなく生を謳歌する者のことばだった。
もう『硲永介』ではない、『橘幸介』の心からの声だった。
「……心の向くままに、生きるから」
幸介は――幸丞は、答える。そう呼ばれるのも、そう在るのも、最後であろう名前を抱いて。
舞い上がった永介であった幸介の声は、薄く水色を湛える空の中に吸い込まれていった。その生の輝きそのもののような、淡く円を描く太陽が眩しい。眩しくて、目を細める。目端にちくりと、ほんのわずかな棘が刺さったような痛み。
脈を打つ心臓にまでその痛みは届いて、最後に幸丞は笑った。
「お前が隣にいないことが、俺は寂しいんだよ」
俯けば、水面に映る幸介も笑っていた。目の端からすうっと痛みが抜けて湖面に落ちる。微かな波紋を拡げながら、透明に溶けていく。湖が凪ぐころにはもう、そこにいるのは橘幸介一人だった。
そうして一人は寂しいと素直に叫ぶ心に、応えるいくつもの声が生まれる。
「おーい! 幸ちゃーん!」
「コースケー!」
「釣れてるかあ幸之介ー!」
ぎょっとして振り返る。申し訳程度に整備された山道を登ってくるいくつもの人影があった。
「あねき! 愛海! 祖父ちゃんまで……!?」
それだけではない、三人の向こうには徹と、美尋を連れた悠生、圭と三田加奈子に挟まれた太一の姿までもがある。
突然現れた大所帯に幸介はぽかんと口を開ける。そんな弟の顔があまりに面白かったものか、釣り竿を肩に担いだ葵生は隠すことなく笑い声を上げた。
「ちょうどおじいちゃんが来てね、春休みで暇だろうから葦名湖に釣りにでも行かないかって」
「なのにお前ときたら友人と釣りに行ったって言うだろう。だったら一緒に混ぜてもらおうと思ってな」
「で、ふもとの方まで来たら愛ちゃんたちに会ってね」
話を振られた愛海は肩を竦めて太一たちに視線を向ける。
「私は圭と加奈子と映画に行くつもりだったんだけどね。圭がお父さんにチケット貰ったからって。それが先行試写会のペアチケット二枚だったんだけど、私たち三人じゃもったいないねって話になって」
そこで愛海は、何故かにやりと笑った。幸介の方に近づいて、ちらちら太一と圭の方を窺いながら声をひそめる。
「圭、太一くんに春休みは遊びに行こうって誘われてたけど、もうすぐ家族で旅行に行くからって断っちゃったんだって。その埋め合わせじゃないけど、折角だから今日の映画に誘ったらどうって」
「なるほど」
つまり愛海と加奈子で圭を焚きつけたらしい。
圭が太一のことをどう思っているのか、幸介はまったく知らない。が、春休みに遊びに行こうと圭を誘い、即行で断られたと気落ちする太一のことはよく知っている。あの落ち込みようをさすがに不憫に思って圭が太一を誘った、という流れなら幸介にも納得できる。
「で、来たと思ったらコースケとの釣りの途中だったのをほっぽり出してきたって言うでしょ?」
「だったら皆で釣りに行ったほうがいいんじゃない、ってことになったのよ」
「映画は先行試写会だし、お父さんにはちょっと悪いけどチケットは貰い物だし。正式な公開のときにまた観られるから」
いつの間にやら加奈子と圭が幸介の隣に並んでいた。その向こう、圭の隣で太一が複雑な表情を浮かべているのが少しばかり哀れである。大方圭と二人きりだと思ったら愛海と加奈子もいて、それでもいいかと妥協したら結局釣りに戻ることになって、というところだろう。
自分のことは気にしなくてもよかったのにと思う反面、一人の釣りに虚しさを覚えていたのも事実だ。曖昧な苦笑いで太一を見れば、こちらも居心地悪そうに後ろを振り返った。
「……で、商店街で美尋ちゃんとの用事が終わったユウと、バイトから上がったトオルとも一緒になったってワケ」
「にしても、随分と大所帯になったけどな」
眼鏡のツルを押し上げながら、徹が笑っている。その視線の先には美尋と、持参したらしい釣り竿を美尋に持たせて釣りの極意を伝授する蔵之助と、美尋と一緒に釣り竿を支え持つ悠生の姿があった。葵生も悠生の隣に座り、釣り竿に疑似餌を取りつけ始めている。愛海がすかさず葵生を手伝い始め、圭と加奈子も愛海と葵生に声援を送り始めた。知らぬ間に釣り勝負の様相を呈している。
わいわいと盛り上がる皆の姿に、幸介は目を細める。静かに春を湛えていた東雲山はすっかりと賑やかになっていて、幸介一人だった時の寂しさなど微塵も残っていない。
「……よし、俺たちも負けてられないな!」
「おっ、コウもやる気になったな?」
「なんだぁコウ、アウトドア派の俺に敵うと思うなよ!」
幸介の威勢に太一もにんまりと笑い、自分の釣り竿を用意し始める。徹は勝負の行く末を見届けるつもりなのか幸介と太一の間に陣取った。
ぐっと力を込めて釣り竿を握る。一人ではない、という確かな強さで、あるいは確信で竿を握る。垂らしっぱなしの糸には相変わらず何かがかかった手応えはなかったが、それでいい。幾本もの糸が湖面に垂れて、幾重にも幾重にも波紋を作っていた。
きらきらと弥生の陽光を生むそこはただ透き通って、もう幸介の姿は映っていない。水面から掻き消えたもう一人の幸介は、屈託なく笑って勝負の行方を見守っていた。
(沁々三十題/群青三メートル手前)
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